僕はアーティストとして生きたい

うすうす気づいていたことでもあり、根源的な願いだったのかもしれない。

特定の表現方法や才能みたいなものがこれまでの僕にはあったわけではないけれど、アーティストとして生きたい。それで生きていきたいという願いがある。それに気づいたし、それを今認識している。

自分の中でアートについて考えていくと、生きていること自体がアートであり、すべての人が特別なアーティストでもある。だから、わざわざアーティストになるとか、アートするとかいうことに違和感がある。

だから、この宣言には若干、結構なダサさがある。

それでもなのだ。それでも、僕はアーティストとして生きたい。生きているだけでアーティストなのだという意味でのアーティストでは今はなんか満足できない。

言葉で語ることでも、宣言することでもない。誰に許可を得るものでもない。勝手にやればいいことなんだけど、

それでも、僕はアーティストとして生きたいという言葉とその願いがしっくりくる。何をするか、どうするか、それはこれから考える。

僕はアーティストだ。僕はアーティストとして生きている。物凄いアーティストだ。

稽古から気持ちが離れていった日々

気持ちが離れていった時がある。

2020年の10月に開催された合宿の後だったと思う。この会における役割を終えてしまったような感覚になった。色々と思い当たる節がある。

2019年から取り組んできた外部向けのイベントを手伝ってきたのだが、今回の合宿では運営に関してはほとんど関与しなかった。しなかったというよりも、させてもらえなかったというのが僕のその当時の捉え方だった。

2019年の夏頃に合宿に行った帰りに、先生と事務局長から教育領域に関しての展開について本腰を入れて協力して欲しいととてもありがたいお言葉をいただいた。その年の12月には僕の勤務先でイベントを開催した(*)。これから学校教育や企業人材育成(この言葉はあまり好きではない)の領域に展開していこうと思い、僕をこの武道に出会わせてくれたご夫妻と共に活動していこうと思っていた。

この2020年の10月の合宿は、その第二弾として企画されたものだった。だから、この合宿の運営に関しては、ほとんど関わることができなかったのは、とても寂しかった。辛うじて、SFご夫妻からの声かけで行き来のドライブで先生たちを送り迎えすることやお弁当の受け取りなどで関わらせてもらえた。

運営に関わらないことで100%参加者として、その場に居られることはとてもありがたいのだけれど、運営側でないとすると、僕はこの会においては一年ちょっとの稽古をしてきただけの人間で、教育領域においては自分の居場所をほとんど見失っていた時期だったから、この合宿においてどこに自分を置けばいいのかいまいちわからず居心地の悪さを感じていた。この合宿の詳細は別で書くが、最後のシェアリングでは、A先生や事務局長と師範方たちとの間にあったわだかまりのようなものが氷解していったような時間となり、感動のうちに終わったのは今でも印象に残っている。

 

気持ちが離れていった理由について振り返る。

 

SFご夫妻と一緒に時間を過ごす時は、大体、会についての話になる。今後数十年の間に起きるであろう大きな節目に向けてどのように会が動いていくのか、誰がどのような思いでいるかなどをよく話す。僕らは運営メンバーでも師範でも古くからの稽古人でもない。SFさんは10年以上通っているようだが、そういった立場には入っていない。でも、この会が好きで、先生や師範たちも好きで、稽古を一生懸命取り組み、学び、楽しませていただいている。

 

そうやって会のことを考えながら行動することも、教育などの領域に先生たちを紹介できることもとても楽しかった。ある意味でやりがいをそこに感じていた。だから、10月のことを機にそれから外されてしまったような気がして残念な気持ちになったのだ。そこに対して何らかの使命感を感じていたから尚更だった。

でも、運営から離れたことは自分が稽古に打ち込むための機会になることだと、このことを受け止めることにした。

 

他にも気持ちが離れてしまったのは、そういった出来事のせいだけではなく、急に身体から先生が離れていってしまったような感覚があったのが一番の原因だったと思う。渦の中にいたのに、そこからポーンと弾き出されたような感覚になった。今までの高揚感が去っていき、夢から醒めたような感覚だった。

 

11月に入り、稽古を初めて休んだ。檜の伐り出しに行きたくなったからだ。それまでは稽古を最優先にして土日には他の予定を入れなかった。でも、その日は稽古ではなく、そのイベントを優先させたくなった。自分の中での研修参加の優先度が下がっていた。

 

12月5日に最後の級の審査があった。受け技からの攻め技の形、そして、木刀での組み太刀が審査項目だった。連続技に苦戦はしたが、一緒に稽古をしてくれる先輩のおかげで練習を積むことができた。

 

12月中旬に事務所に呼ばれて食事をした。でも、呼ばれたのが別の稽古の作品作りの催促のためだったのではないかと勘繰ってしまったのと、10月頃から気持ちが離れているのを見透かされているようで、なんだか少し気乗りがしなかった。美味しくご飯を頂いたのだが、食事をした帰り道に何故だか悲しく、寂しくなった。

 

自分がそこから卒業して行くような、自分がいる場所から先生方がさーっと離れていってしまうような感覚。終わりを迎えてしまったのだろうかと寂しくなった。

出会いと新たな名前

 初めてA先生と会ったのは、2018年7月の瞑想会だった。

その年の6月1日に知人のSFさんからお誘いのメールがあった。以前からA先生の武道や会に誘ってくれていて、僕がFacebookに「何か武道をやりたい」と書いたところ、 A先生とその団体について紹介をしてくれた。

その日のメッセージでは、月一で開催されるA先生の講義・瞑想に一緒に行かないかいという誘いだった。あいにく、6月9日は祖父母の一周忌があり、向かうことができなかったが次月の会に一緒に行くことにした。

7月某日、市ヶ谷にあるあるビルに向かう。ビルの一階のロビーではどなたかが話されていて、軽く会釈をして、エレベーターに乗って、会場に向かう。30~40人くらいが入る部屋に入ると、入り口そばで、女性が受付・案内をしてくれた。おそらく申し込みをした際に連絡をくれた事務局の方だと思い、挨拶をして会費の支払いを済ました。

その彼女は、僕に一番前に座るように促してくれた。恐れ多かったが、座らせて頂いた。

ニコニコしたおじさんが前方のホワイトボード前に椅子に座る。一階で談話していた男性だった。あの人がA先生だったのかと、挨拶をしておいてよかった。

実は、A先生のことはあまり詳しく調べていなかった。正直、ホームページをみてもあまりわからなかったというのもある。

講座開始に事務局長の方から全体に紹介していただいた。そして、その後に、A先生から僕の名前の漢字について説明をしてもらった。(恒例のことなのだなぁとその当時思ったのだが、後にも名前の解説をしてもらっていた人はいなかった。)

 

ホワイトボードに非常に達筆で「遵」の字を書いてくれた。

 

遵という字の成り立ちは、樽を捧げる姿から来ていると言われており、自分よりも上位のものに何かにしたがうことを意味しているとのことだった。

 

その頃の僕は、自分の名前に退屈さを感じていた。従う、遵うということが、社会のルールや学校のルールに従うことで、その枠から出ることができない自分がなんだか嫌だった。真面目な自分、馬鹿正直になってしまう自分が嫌で、苦しかった。

 

A先生は、字の成り立ちに続き、こう言ってくれた。

「自分よりも大きな存在、なんでもいいんですけど、宇宙の真理にしたがう、というふうにも読めるね(*)」と。

 

その言葉は本当に衝撃的だった。退屈さを感じ、うんざりしていた名前だったのに。

A先生のその言葉を聞いて、そうかと、宇宙の流れに、ルールにしたがって生きていけばよかったのだと。急に目の前が開けて明るくなってきた感じがしてきた。35年間付き合ってきた「遵」という名前だったが、その時、新たな名前をもらえたような気持ちになった。それは何かの洗礼を受けたような気持ちになったを今でも覚えている。

 

そして、この日が人生で初めて師と呼べる存在に出会うができた日となった。

 

インターステラーとルン・ル

週末と昨日、インター・ステラーという宇宙映画を観て、ルン・ルという速読術の書籍を読んだ。

 

インター・ステラーを観て、もっと瞑想を深めたいと思った。

それは、未来の自分が死ぬ寸前に、過去の自分にメッセージを送っている可能性があって、それに気づくためにだ。

インター・ステラーの最後の場面では、主人公が臨死体験をして五次元の世界から過去の自分や娘にメッセージを送る。送ると言っても直接現れて話しかけることはできないから、何らかの間接的な形でのメッセージを送る。それは本の位置かもしれないし、落ちたものかもしれない。

だから、メッセージを送られた側は、何がメッセージなのかに気づき、それを読み解くしかない。それゆえに、それに気づくためには、気づきのレベルを上げておく必要がある。

 

啐啄的なところがあって、送る側の死の時期と受け取る側の生の時期に合わせたメッセージを作る必要がある。でも、死ぬ時期はわからないから、今の僕にできることはそのメッセージに気づけるようになることだ。

だから、もっと瞑想を深めて、メッセージに気づけるようになろう。

 

ルン・ルという速読法に関する本を読んだ。速読を超えるサイバーリーディングと呼ばれ、余分な力を抜いていくことが必要だという。

 

ルン・ルは、死ぬ寸前の準備なのかなと思った。

 

本の中盤でルン・ルの提唱者の植原紘治先生が自動車整備工をしている際に子どもたちに勉強を教えていたのがルン・ルの始まりとしてエピソードを語っている。速く読む

、加速させながら読む、読むから見るに移行していくのだが、その後が重要なのかと思う。速読で読んだことを思い出すという行為だ。

 

最近、本を読んでも読んでも、なんだか足りないという気持ちが解消されなかった。自分の目のせいや記憶力にしたくなる。でも、気づいたのは、これまで思い出すということを意図的にやってこなかった。気づいたところには線を引いたり、メモを取ったりするものの、それらを思い出すということはしてこなかった。

学習方法を間違えていたことに気づく!読むことだけじゃなくて、思い出すことが大事なんじゃんと!

 

そして、インター・ステラーを観ながら、ふと、気づく。

臨死体験中に思い出せなかったら困るじゃん!

いつのどこで何が起きていたか覚えてないとメッセージを送れないじゃん!

 

そう思うと、ルン・ルというのは、臨死体験中に、人生や時間の一コマ一コマを思い出すための予行練習なんだなと気づく。映画のフィルムのように記憶・記録されているコマのどこに自分が行きたいのかをそれを思い出すための準備。

 

とっ散らかってしまった気がするので、まとめる。

 

インター・ステラーからは、未来から今の自分にメッセージが送られている可能性があることがわかった。その未来から今に送られているメッセージをいかに受け取るか、気づくことの重要性を気づく。今を生き、メッセージを受け取る側として、気づきのレベルを上げておく必要があるのだ。

 

ルン・ルからは、逆に死に直面した時のメッセージを送る側としての練習なのだと気づきを得た。五次元の世界に行った時に迷子にならないための準備。過去の自分のいつ・どこで何が起きたのかを思い出すためには、思い出す練習をしておく必要がある。

 

今を生きるのも、死ぬのも楽しみになってきたぞ!

続いた不調から戻ってきた

4月は絶不調の日々がずいぶん続いた。特に20日付近から変な感じがしていた。

「頭でうまく考えられない」という時間が数週間は続き、アイデアというか頭の中で次のページが見えてこない感覚だった。身体もおかしい。下半身がやたら冷たく、下腹部にも違和感。そして、困ったことに耳鳴りが続いた。夜寝る前に耳鳴りが聞こえて気が狂いそうになる。

5月中旬になって、その原因らしきものがわかる。単純にPCでの作業やオンライン会議が多すぎたことから始まり、やりたくないことをやっていたり、人の念だったり、エネルギー的な変化だったり、精神的な成長だったり、さまざまな要因が重なりあっていたようだ。

 

物事が単純な一対一の因果関係で起きているのではなく、複数の次元や要素で起きているのを実感する。そして、それを身体が感受して反応として知らせてくれる。やっぱり身体、身体感覚というのはありがたい。

 

 

続・生きている価値について悩むのやめた

生きる価値について悩んでいると、

「そんなこと悩んでも意味ないよ」、「そんなに考えても無駄無駄」、「辛気臭いなぁ」「真面目すぎるなぁ」なんて声をかけ慰めてくれる人が結構いる。

 

でも、僕はそうは思わない。

 

この答えにたどり着くまでは苦しかったし、時間を費やした。
生きている価値をどうにかあることを証明したかった。
精神世界的にも、生物学的にも、存在論的にも...考えてみた。
それでも、そこからの答えは、心のどこかで疑いうることだったんだと思う。

 

だから、疑いうること考えることは決して無駄じゃないし、
そのおかげで自分の価値観に向き合ったり、
自分をマネジメントする術を学ぶことができた。

 

生きている意味や価値を考えることやそれを悩むことは決して無駄じゃない。
そうしてきたことは肯定していい。

 

でも、もう悩まなくていい。
このブログをここまで見ただけで、この管理者のためになっているし、電気代、パソコンスマホ本体に、通信代、それらを供給する人たちのためになっている。

君や僕という存在のために、勝手に回っていてくれている。
経済がそうやって生きる価値があることを証明してくれる。

 

だから、生きる価値があるか、ないかで言えば、ある。

 

水道ひねっただけで、大腕振っていい。

 

「そんなの当たり前のことだろ?」と思うかもしれない。
でも、その当たり前がすごいことになっている。


そう思う人は、それを供給してくれている人に日々感謝をしているのだと思う。
もしそうだとしたら、その感謝、ありがとうの気持ちは2倍になっている。
そう思うとすごいことだよね。

 

だから、もう思い悩まなくてもいい。
どう生きていきたいか、自分で思い描いて生きていけばいいかを思い悩み、決断していけばいい。どんな未来を作りたいかを考えて、行動を起こせばいい。

どんな決断であろうと、どんな行動だろうと、君には生きる価値がある。

 

俺が強かろうと弱かろうと、健康だろうと不健康だろうと、何か持っていようといまいと、お金があろうとなかろうと、精神的に成長していようといまいと、就職していようといまいと、仕事していようがサボっていようが

俺には生きる価値がある。それはもう疑えない。

 

いろいろな角度から悩んできた君も、何度も何度も考え込んできた俺も
そうやって悩んでいる間にも誰かの役に立っているのだ。

 

見えないし、見えづらいけど、嘘じゃない。

 

だから、もう悩まなくていい。

生きている価値について悩むのやめた

「生きているだけで価値がある」という言葉は、
よく聞くし、自分でも「そうだ!、そうだ!」と賛同していました。

 

誰しもが
仕事してなくても、
学校行かなくても、
金を稼がなくても、
何かを達成できなくても、
何か特殊な技能を持っていなくても、
存在しているだけで意味がある!
生まれてきただけで価値があるんだ〜!!
価値は金なんかじゃ測れない〜〜!!
経済なんて馬鹿野郎!
と思っておりました。

 

そんなふうに思っていた私ですが、
度々このことについて考え込んで、塞ぎ込んでおりました。
「自分が生きている意味は何だろう....」とか
「俺って生きている価値あるんかなぁ...」とか
考え込んでいました。

 

「皆に生きている意味や価値がある」というのは頭でわかって納得しているものの、
それが自分に対して「生きている価値」を問おうとすると、実は鬱々としてしまう。

 

それをどうにか証明しようと、ずっともがいてきた気がします。


こんなふうに悩んだ時は、
身体動かしたり、瞑想したりして、そうしている間に気持ちが落ち着いてきて、
ピースフルになり、ある意味でのマインドフルになって
物事一つ一つに感謝の気持ちや
「ありがとう」という気持ちが湧いてきたりします。

 

そして、頑張って生きてきた自分にも「ありがとう」なんて気持ちを抱けるようになり、生きていることの価値の確信、というより確認ができて落ち着けたりします。

でも、しばらくすると、また、「俺には生きている価値があるんだろうか」...と同じパターンがやってきます。

 

先日から投資に関する本をいくつか読み始めたのですが、
そこに今まで一番納得する答え、考え方がありました。

 

「人は、ただ生きているだけで価値がある」
「人は、ただ生きているだけで誰かの役に立っている」


そう、ひふみ投信藤野英人さんは書籍の中で言います。

 

それは、『生産活動に参加していなくても、消費活動に行っているだけで、「誰かの役に立っている」』だからだそうです。

 

書籍では赤ちゃんの例が出されているのですが、
自分を例に考えてみると
寝ている間にスマホを充電している間にも誰かの役に立っていて、
家を出かけて電気消し忘れてても誰かの役に立っていて、
トイレで用を足して水を流しただけでも誰かの役に立っている
つまり、そこに経済活動が発生している。

 

正直、驚きました。

 

俺の度重なる悩み...長年の辛さ..
金で解決された。経済に、経済という仕組みに解決された。

 

今までは、
今日も電気が使えてありがとう、
今日も水が使えて、飲める水があってありがとう、
感謝しておりました。
逆に、それを思えてないと気がついた時、
自分はなんて罰当たりなんだろうとか思っていたりした。

 

でも、そんなこと考える必要なかったし、自分を責める必要なかった。

 

なぜなら、そうやって自分を責めちゃった日も、水を使ったことで、水道水に関わる人に貢献しているわけだし、家の中にいても、外に出かけても、

消費活動していれば、
何らか誰か、しかも大勢の人たちの役に立ってしまっているのですから。

 

逆に、それを避けるのすら難しいというか、ほぼ無理!

 

そういったものを供給する側から見れば、使ってくれてありがとうございます。
「毎度あり〜〜」ってことだったのです。

「生きててくれてありがとう」でした。
何なら「長生きして、もっと使ってくれよ」です。

 

精神論やスピリチュアルな話でもなく、生物とか進化とかの話でもなく、経済的に、実質的に、役に立っておりましたわ、私。
散財癖のある私、経済を回しておりましたわ。
資本主義経済社会、日本にいて、そこで生活しているだけで、十分に社会的に価値がある存在でしたわ、私。

 

こうなると、生きている価値があるかどうかなんて証明する必要なんてもうない。
疑いようがない。もう思い悩む必要もない。

 

だから、生きている価値を考えるのもうやめだ。
もうそんなことに悩まない。
だって、価値がないことを証明することができないもん。

 

よっしゃ、生きるぞ!!