直感と理性の関係再考

悪いことが起きた時、理性が働かなかったことが原因であるように語られることが多い。行動の抑制機能としての理性に欠陥があったような感じで話されることが多い。本当にそうなのだろうかと最近ふと思った。

 

確かに、起きる物事について知識として知っていたとしてもその瞬間瞬間に判断がつかず、起きる必要のない出来事のリスクを高めてしまったり、あまりよくない結論を招いてしまったりすることもある。でも、それはその一瞬の話で、理性や知識上では起きる結果はわかっている。

 

でもだ、こういった出来事が起きる前に何度かある直感的なサインを逃していることに気がついた。そういった出来事に至る前に、何か違うな、理由もわからない、論理的考えても別に変じゃないと考えられるのに、違和感が訪れているんだけど、それを無視してしまっていることがある。そのサインを気のせいだと見過ごしてしまったせいで、起きてしまうのだ。

 

理性的な判断が迫られる前にもう既に身体的な反応が起きている、異常サインが来ている。それをキャッチして置かなければならない。そのサインを無視してしまうと、なし崩し的に物事が起きてしまうのだ。

 

からだからのメッセージをやはり優先しなければならないとなおさらに感じている。理性的にどうとかというのは僕にとっては二次的なものなのかもしれないな。

僕を助けてくれたもの

頑張り方がわからない。30代に入る頃だろうか。そう思い悩むようになった。特に自分のために頑張ろうとするとその度その度に挫折感を味わっていたように思う。自分の研究や論文、自分のスポーツ、自分の恋愛…そういった自分に関わるものに対して、自分の意思で取り組もうとすると全く進まず、全くうまくいかない。そういう気持ちに陥っていた。生まれ変わりたい、産まれ直したい、そういう風に思う自分もいたし、ストレスから解放されるため、あるいは、何も考えずにいられるようにしてしまう自分もいた。

そんな時期に助けてくれたものがある。それはタントラとそして今の稽古だ。

稽古との出会いは2018年5月、知人からの紹介があり、創始者の書籍をくれたことが始まりだった。その後、翌月に都内で開催されている師範の支部教室に参加した。その翌月7月に創始者の講座に参加した。その出会いに関しては以前にも書いた。講座に出ている中で、9月に刀の演武会があると聞き、観に行くことにした。実は当日直前まで会場に行く気持ちになれなかった。その演武会を鑑賞して入会を決めた。2018年10月から稽古に参加し始めた。それから稽古を最優先に日程を組み参加してきた。2021年には初段、2023年12月には弐段を取得した。2019年夏から書の稽古も始めている。

タントラは、2017年7月にラダの書籍「タントラライフ」とOSHOの「愛の円環」を買って読んだのだが始まりだった。その後、ネットでさまざまな検索した。当時は今よりも情報は限られていたけれど、どうにか探し出していくつかセッションを受けた。記録を見返してみると、2019年4月に都内で男性セラピストのマッサージセッション、そして2019年5月京都で女性のセラピストから感情デトックスボディワークというセッションを受けている。2019年9月下旬にある団体が主催する男性だけのワークショップに参加した。出会いの時期だけそのあと、その団体のイベントに参加している。2020年7月石裂山、2020年8月湘南、2020年12月末石裂山、2021年4月湘南、2021年9月大阪、2022年2月東京、2022年3月東京、2022年4月山中湖、2022年8月湘南、2022年10月山中湖、2024年2月都内、そして、2024年3月春分都内。また、OSHO系のペインティングには、2021年4月安曇野、2023年5月滋賀に参加した。コースを最後まで終えていないが、2020年10月頃にマッサージのコースにも参加している。

2019年に京都で受けたセッションを申し込むときに、こんなことを書いている。

これから自分が生き続けるために、感情の解放と身体、性に対する取り組みが必要を感じて、セッションを依頼しました。20年以上、自分らしさや自分がやりたいことが何なのか探しています。30代になり希望の職についたものの、その職に求められる自分になろうと努力してきた中、それにも疲れ、自分が何だかわからくなってしまいました。頑張ろうとしても頑張り方がわからない、頭で考えようとしてもうまく考えられない、自分を信用することができない、そんな時間が続いています。10代初期から、そこから感じるストレスを性的な発散で頭を真っ白にすることで逃れようとしていました。また、効果のページにもあった、愛への恐怖、一人の人へのコミットすることにも課題を感じています。それらに対しての成長か変化のきっかけになると思い、連絡しました。

また、セッション前に出された読書課題として、ディビッド・ディーダの「一流の男への道」を読み、その感想を送った。その時はこんなことを書いている。

先日ご紹介頂いた書籍「一流の男」への道を早速一読しました。

セクシャリティスピリチュアリティの関係性を解いているところが非常に興味深く、目からウロコがでる箇所がいくつもありました。これまで自分が抱えてきた恐れや虚しさは、使命感や人生の目的の探求と設定を避けてきたからだったと気づくことができました。

書籍の出版が1990年代後半だったからかも知れませんが、前半部分で例に挙げられた男性像女性像が少し古く感じたところもありました。しかし、全体を通して、人間が持つ男性性と女性性の本質的な理解、男性として両性性を統合した上で男性性を発揮する意義が語られていて、今の自分と重ね合わせて読むことができました。

私が今まで抱えていた、心と体との関係の葛藤、そして、女性関係や社会との関係での葛藤を乗り越える糸口を見ることができたように思います。自分の在り方と性の捉え方がこんなにもリンクしていたのかと謎がたくさん溶けた感じがあり、読み終えると、心が落ち着くとともに、大人になることへのワクワク感を抱くことができました。自分の男性としての成長・成熟を果たしていきたいです。

さらに、

性との向き合いと付き合いが、身体の状態と心のあり様そして生き方につながっていることを実感できたように思います。自分に対して自信が持ててなかったこと、それがこれまでの女性との関係性において相手の傷つきを癒すことばかりに目が行き、その結果依存関係の構築につながっていたことに気づきました。そういった自信のなさが肺、心臓、腸の状態であったりや股関節の開きなどと関連していると聞き、身体でも実感できて、とても勉強になりました。

今の状態もとても快適で、自分の中に意志が生まれてきている感じはしていますが、もう一歩先、もう一つの安心と安定感が必要かなと感じています。なので、⚪︎さんのセッションとても楽しみにしております。セッションの日が新元号の最初の新月を迎える前日なので、その日に受けられることが何か意味があるのではないかなと期待しております。また、タントラについて知りセッションを受ける中で、自分が自分の感情と意志と身体の関連を学ぶとともに、自分でも他の方に伝えられるようになりたいと思い始めました。お話も聞かせていただけると嬉しいです。

と書いて送っている。

 

正直、僕は飽き性で、継続的に取り組むのは苦手意識がある。けれど、この稽古とタントラはどちらも5年以上通い続けている。2018年というのは本当に苦しい時期だった、仕事もプライベートも。その苦しい時期の僕を助けてくれたのもこの二つだった。

そして、今、改めて、この二つを大切にしたいと思っている。自分の成長・成熟の支えになってきたこの二つの場を大切にしたい。どう大切にするか、教えるとか伝えるとかこの先それを求められることもあるかもしれない、それはきっと起こることだと思うけれど、そのために何かをするのではなく、この場を大切に思いながらその場に留まっていようと思っている。そこにいて、誰かの助けになれる日が来ていたら僕も嬉しい。

自分を助けてくれたものを大切にしていきたい、そう思い、出会いと歩みを振り返ってみた。ありがとう。

魔法がとけたのか

魔法が解けてしまったかのような感覚になる。

尊敬する気持ちがなくなったわけでもない。習いたいこともたくさんある。もちろん、技や型を十分に習得したわけでもない。けれど、正直、これまで感じていた引力のように惹きつけられる感じが薄くなっている。憧れや惚れ込みみたいなものが薄れているのだ。非常に残念なことに。

おそらく、五人の退任、事務局長の退任は僕にとって大きなことだったようだ。彼ら彼女らの存在は稽古環境において安心感を与えてくれていた。

今は、彼がただ自分が前に出たい、目立ちたいだけなのかもしれないと感じてしまうのだ。そこがカッコ悪いのだ。それを演出させられていることもあるのだろうが。

これまでは実力もないのに自己喧伝をしている残念な人たちに囲まれていて嫌な思いをしていたが、今は実力も相当ありすごい人なのだがしかし幼いのである。自分、自分で。いつまでも自分の自慢をしている姿は何だか残念に感じてしまう。

これは外に意識が向きすぎていて、自分を構ってもらえないという寂しさからなのだろうか。まぁよくあるパターンなのだろう。新しい人は大いに迎えいれ、古いものには厳しくなるあるいは無関心。いや、関心は寄せてくれている。メッセージも来るわけだし。だから、寂しさではないのだろう。ただ残念な気持ちがあるのだろう。

小物のように感じてしまう何かがある。何なのだろう。僕の中の美学とはなんだかやはり違うのだろう。

3/10

今日から師範認定のための実習が始まる。正直何を今更という気持ちもあるし、前本部師範たちから指導してもらえないことが正直残念な気持ちもある。それは彼らのコミュニティに入っていきたいということが自分の中で優先度が高かったからである。五人の中に入りたいという気持ちがあったからだ。人間的魅力もそうであるし、彼ら彼女らが宗家から受け取り繋いできたものに魅力を感じていたからだ。そして、その先に何を創りあげることができるかということに期待をしていたからだ。それが今からこの環境でできるのかというと不安に思うところがやはりあったし、今もまだ拭い切れないところはある。しかし、このままだと、これまでのパターンのような気がするのだ。依存先ありきで進んでいくような気がする。それではこれまでと変わらない。だから、自ら歩んでいく覚悟として今回は今まで異なる決断をした。

 

相手が誰だとかは関係ないのだ。自ら切り拓いていくための決断なのだ。より自由になっていく。自由度を増していくための決断なのだ。

 

初めての全体への号令はやはり緊張した。言葉が思った以上にすらすらでてこなかったし、おそらく少し声が出ていなかった。単に号令をかけるというのは少し難しく感じた。それはおそらく方向性を持っていいのかどうかわからなかったからな気がする。

フィードバックとしては、声がいい、通る声など声の質を褒められ、視線を遠くなどの合間にいれていく言葉も良かったと、また、もっと声量を大きくする、すこーんと通すともっと気持ちいいとのことだった。稽古を受けにいくのと、号令をかけるとでは全然違うな。技の解釈や認識も改めて調べ直さないといけないな。

指導をしていただけるのはやはり有難い。わからないところを明らかにして自分の支部のために準備をしよう。

混沌を許容する仕組み

混沌が許容されるシステム、その言葉がびっときた。

教育や育成に関係するモデルやシステムは、順序立てられ、無駄や混乱の少ない形でまとめられていることが多い。それでこそモデルであり、システムと呼ばれるのだろう。けれども、そういった仕組みを使ったうまくいったことがあまりなかった気がする。文章の書き方もそうだし、省察やカウンセリングのフレームワークや手順もその通りやろうとしたなかなかうまくいかないことが多かった。

今日、自分の声を書く技術という書籍を読んだ。著者の執筆挫折やその困難体験から生まれた手法なのだが、非常に納得できた。特に、フリーライティングという書き方をする点だ。ある一定の時間内はとにかく書き続ける。間違っても脱線してもとにかく書く。頭に浮かんだこともそのまま書く。真空に吸い込まれるように書いていくというような表現をしていた。自己検閲をやめとにかく書くという。そこには駄文も生まれ、無駄な時間にも感じられる。それでも書き続けるのだ。だから、その時間内に書かれた文章はおそらくカオスなのだ。つながっているようにその時感じられてもそのままにし、全く関係ないことを書いてしまってもそのまま進んでいく。そういう文章作成においてのカオスを最初の段階で受け入れていく方法だ。

これを読んで感動して、そして、閃いた。僕が求めているのはこれだと。やり方に混沌性を許容しているからだ。どんなことが起きて、それを受け止めること、それを受け止めてぐちゃぐちゃな状態に耐えうる心持ちでいることなのだ。

これはタントラにも繋がるところがある。感情レベルにおいてカオスがそこに生まれる。怒りや嫉妬、悲しみや苦しみ、それが制御が効かないでそこに現れる。日常ではみたくなかったものであったり、対人の中で勝手に湧き上がってきてしまうものだったりする。それを扱う。ファシリテーターや場がそれをしっかりとホールドしてくれるのだ。そういったカオス性を有するもの発出を許容している。場の人間たちもそれを了解し、そこから気づきを得る。

そういったカオスを想定しない、あるいは、存在しないことにする仕組みは僕にとってはほとんど効果がなかったのかもしれない。

振り返るとそういったものがこの世界には溢れている気がする。大人数をコントロールする必要がある場合や命が関わる場合にはもちろんカオスはない方がいい。コンプライアンスアカウンタビリティーみたいなものが強く先行していて、全くの形骸化が起きていたり、それを重視したがために逆に害があることもあったりする。

カオスを個人に背負わせる自己責任もどうかと思う。昔あったことだ。何をやれば全くわからないと、手探りになりすぎるといった、上司に。そしたら、手探りでやるのも仕事ですと言われた。おそらくだけれど、彼にはそこで想定されるカオスを全く想定しておらず、ただ責任転嫁しただけだと思われる。おそらく、感情や出来事の混沌性に対する許容性がないのだろう。

フリーライティングの採用やタントラのワークショップにはそれがあった。脱線しても、想定外でも、それを人の営みとして許容する懐の深さがあるのだと思う。素晴らしい。

出稽古

出稽古をしている。

 

年末と今月末にS、年末にBとK、2月23日はTに、今日はWに。

 

SはフルコンタクトでK空手から派生していて、起業志向の人たちが有志で集まっているような集団。MMAのグローブを装着して殴り蹴り合う。本来は何でもありで闘うらしい。月一回開催されていて、参加者達はそれ以外は自主的な稽古を他流などで積んでいるらしい。

初回から組手があり、顔面なしのルールで闘った。初めての殴りあいだったが、その日に習った下段の払いや蹴り、連打での突きやパンチをした。腕は腫れ、身体はあざだらけ。さんちんだちという、上半身下半身を内巻きに締める立ち方で、急所や胴を守る姿勢が基本とされていた。闘い方について、近年道場主である学者によって発明された理論が使われる。突き蹴り払い手刀などの基礎稽古から始まり軽い組手、その後、実戦。稽古の中では、距離の取り方の四種類(剛流練⚪︎)、這いという四股での歩き方、呼吸法、相手に向かい相手の後ろに先に存在していくことを意識して歩き抜ける、手合わせて円を描いて腕を回すなど、奥義と呼ばれるものが紹介され、それが特徴であるという。このSに参加して、自らの流儀の凄さ、創始者の凄さをより実感した。痛い思いもしなくてもよく、さらに簡単により早く心身の開発がされる、その方法があることに気づく。

二回目は参加直前は憂鬱だったが、どうにかやりきった。前回はSの流儀に合わせて実戦をしたが、この回は自分の流儀の要素を入れながら闘ってみた。中段の突きを何度も入れることができたり、柔らかい受けをすることを試みた。合間を目の前にするとやはり身体に肩に力が入ってしまう。前回の痛みや怪我の記憶から思いっきりさは出すことができなかった気がした。しかし、この日稽古で学んだこと、横にステップしてからの中段やただ歩くように蹴る、下段の蹴りなどを試すことができた。繰り返しになるが、自流の凄さをより実感した。自分の稽古をしたいと思った。

 

Bはチリの人類学者が開発した心理学ベースにグループでの音楽と踊り。伝統儀礼の中にある踊りの要素を抽出して発生まれたグループワーク。日本人女性ファシリテーターがブラジルで学び、今日本で会を開いている。ソマティックの文脈で紹介されている。

非常に和やかな雰囲気の会だった、相手の動きを模倣したり、手を繋いだり、小学生の頃にしたマイムマイムを思い出す。交流の中で相手からエネルギーをもらえる感覚があったり、動きを通しての意識や身体の解放があり、生きている実感や躍動させたい命があることに気がついた。

 

Kは、中国武術の一つ。1930年代に創始され、その弟子がさらに発展体系化された武術。初心者クラスに参加。

スポーツトレーナーをされている方が講師で非常に落ち着いた雰囲気の会だった。動きと意識の関係が興味深く、途中で手首に手を乗せられた状態でそれに意識を取られずに挙げていく動きがあったが、この感覚がわかれば生きやすくなる感じがした。ただ挙げる、抵抗や障害があってもそこに意識を向けず、ただ挙げる、それに意識を向けるだけだということがわかった。

 

Tは、1960年代中盤にインド人神秘家によって発展され、一時期はアメリカでも大興盛した。その神秘家の弟子であるイタリア人女性から学んだ日本人男性によってファシリテートされている。2019年から度々参加している。今回は男性だけのワークショップ。男性との繋がりの中での寛ぎを見つけることができる時間となった。異性との間に生まれる感情とは別の愛おしさを感じた。100%以上出し切る踊りのタイミングがあったが、Sの稽古の翌々日で身体の痛みと疲れからか、息が上がり踊り切ることができなかった気がする。体力落ちている気がした。

 

25日はW。K空手出身で日本の神道系宗教団体に出会ったのちに、言霊と釼を合わせた武道を創始した人物が教える初心者向けの講座だった。古事記万葉集などの考え方が反映されていて非常に興味深く、神主のお祓いのような木剣の扱い方だった。また螺旋の動きが基本とされており、その動きが非常に心地よかった。理論や体系の説明が非常に明確でわかりやすかった。霊性をしっかり扱っていて、好感を持てた。神事として行うというような方向性が明確で、また創始者もそういった活動を実際にしており学んでみたいと思うものだった。武術武道としてというよりも、それと神事の組み合わせとして興味を持った。

 

今月10日に師範認定資格を申請した。約数ヶ月間の実習がある。申請する上で実は悩んだため、申請可能な段を取得してから、二ヶ月経ってから申請した。自分の稽古をしていくためと、実はあまり他の武道を知らず学ぶ必要性を感じたため、他の場所に稽古に出向いている。それが知れたら気まずい気もしているが、さまざまなところで学ぶことの重要性を師匠も話していたため、回っている。

 

こうやって他を回ることで自分が何を求めているのか、求めてきたのかの片鱗が見えてくる。霊性、身体性、非物理性、神事、生命、生き方など。自分にとっては格闘技である必要がないこともわかってきた。