混沌を許容する仕組み

混沌が許容されるシステム、その言葉がびっときた。

教育や育成に関係するモデルやシステムは、順序立てられ、無駄や混乱の少ない形でまとめられていることが多い。それでこそモデルであり、システムと呼ばれるのだろう。けれども、そういった仕組みを使ったうまくいったことがあまりなかった気がする。文章の書き方もそうだし、省察やカウンセリングのフレームワークや手順もその通りやろうとしたなかなかうまくいかないことが多かった。

今日、自分の声を書く技術という書籍を読んだ。著者の執筆挫折やその困難体験から生まれた手法なのだが、非常に納得できた。特に、フリーライティングという書き方をする点だ。ある一定の時間内はとにかく書き続ける。間違っても脱線してもとにかく書く。頭に浮かんだこともそのまま書く。真空に吸い込まれるように書いていくというような表現をしていた。自己検閲をやめとにかく書くという。そこには駄文も生まれ、無駄な時間にも感じられる。それでも書き続けるのだ。だから、その時間内に書かれた文章はおそらくカオスなのだ。つながっているようにその時感じられてもそのままにし、全く関係ないことを書いてしまってもそのまま進んでいく。そういう文章作成においてのカオスを最初の段階で受け入れていく方法だ。

これを読んで感動して、そして、閃いた。僕が求めているのはこれだと。やり方に混沌性を許容しているからだ。どんなことが起きて、それを受け止めること、それを受け止めてぐちゃぐちゃな状態に耐えうる心持ちでいることなのだ。

これはタントラにも繋がるところがある。感情レベルにおいてカオスがそこに生まれる。怒りや嫉妬、悲しみや苦しみ、それが制御が効かないでそこに現れる。日常ではみたくなかったものであったり、対人の中で勝手に湧き上がってきてしまうものだったりする。それを扱う。ファシリテーターや場がそれをしっかりとホールドしてくれるのだ。そういったカオス性を有するもの発出を許容している。場の人間たちもそれを了解し、そこから気づきを得る。

そういったカオスを想定しない、あるいは、存在しないことにする仕組みは僕にとってはほとんど効果がなかったのかもしれない。

振り返るとそういったものがこの世界には溢れている気がする。大人数をコントロールする必要がある場合や命が関わる場合にはもちろんカオスはない方がいい。コンプライアンスアカウンタビリティーみたいなものが強く先行していて、全くの形骸化が起きていたり、それを重視したがために逆に害があることもあったりする。

カオスを個人に背負わせる自己責任もどうかと思う。昔あったことだ。何をやれば全くわからないと、手探りになりすぎるといった、上司に。そしたら、手探りでやるのも仕事ですと言われた。おそらくだけれど、彼にはそこで想定されるカオスを全く想定しておらず、ただ責任転嫁しただけだと思われる。おそらく、感情や出来事の混沌性に対する許容性がないのだろう。

フリーライティングの採用やタントラのワークショップにはそれがあった。脱線しても、想定外でも、それを人の営みとして許容する懐の深さがあるのだと思う。素晴らしい。