出稽古

出稽古をしている。

 

年末と今月末にS、年末にBとK、2月23日はTに、今日はWに。

 

SはフルコンタクトでK空手から派生していて、起業志向の人たちが有志で集まっているような集団。MMAのグローブを装着して殴り蹴り合う。本来は何でもありで闘うらしい。月一回開催されていて、参加者達はそれ以外は自主的な稽古を他流などで積んでいるらしい。

初回から組手があり、顔面なしのルールで闘った。初めての殴りあいだったが、その日に習った下段の払いや蹴り、連打での突きやパンチをした。腕は腫れ、身体はあざだらけ。さんちんだちという、上半身下半身を内巻きに締める立ち方で、急所や胴を守る姿勢が基本とされていた。闘い方について、近年道場主である学者によって発明された理論が使われる。突き蹴り払い手刀などの基礎稽古から始まり軽い組手、その後、実戦。稽古の中では、距離の取り方の四種類(剛流練⚪︎)、這いという四股での歩き方、呼吸法、相手に向かい相手の後ろに先に存在していくことを意識して歩き抜ける、手合わせて円を描いて腕を回すなど、奥義と呼ばれるものが紹介され、それが特徴であるという。このSに参加して、自らの流儀の凄さ、創始者の凄さをより実感した。痛い思いもしなくてもよく、さらに簡単により早く心身の開発がされる、その方法があることに気づく。

二回目は参加直前は憂鬱だったが、どうにかやりきった。前回はSの流儀に合わせて実戦をしたが、この回は自分の流儀の要素を入れながら闘ってみた。中段の突きを何度も入れることができたり、柔らかい受けをすることを試みた。合間を目の前にするとやはり身体に肩に力が入ってしまう。前回の痛みや怪我の記憶から思いっきりさは出すことができなかった気がした。しかし、この日稽古で学んだこと、横にステップしてからの中段やただ歩くように蹴る、下段の蹴りなどを試すことができた。繰り返しになるが、自流の凄さをより実感した。自分の稽古をしたいと思った。

 

Bはチリの人類学者が開発した心理学ベースにグループでの音楽と踊り。伝統儀礼の中にある踊りの要素を抽出して発生まれたグループワーク。日本人女性ファシリテーターがブラジルで学び、今日本で会を開いている。ソマティックの文脈で紹介されている。

非常に和やかな雰囲気の会だった、相手の動きを模倣したり、手を繋いだり、小学生の頃にしたマイムマイムを思い出す。交流の中で相手からエネルギーをもらえる感覚があったり、動きを通しての意識や身体の解放があり、生きている実感や躍動させたい命があることに気がついた。

 

Kは、中国武術の一つ。1930年代に創始され、その弟子がさらに発展体系化された武術。初心者クラスに参加。

スポーツトレーナーをされている方が講師で非常に落ち着いた雰囲気の会だった。動きと意識の関係が興味深く、途中で手首に手を乗せられた状態でそれに意識を取られずに挙げていく動きがあったが、この感覚がわかれば生きやすくなる感じがした。ただ挙げる、抵抗や障害があってもそこに意識を向けず、ただ挙げる、それに意識を向けるだけだということがわかった。

 

Tは、1960年代中盤にインド人神秘家によって発展され、一時期はアメリカでも大興盛した。その神秘家の弟子であるイタリア人女性から学んだ日本人男性によってファシリテートされている。2019年から度々参加している。今回は男性だけのワークショップ。男性との繋がりの中での寛ぎを見つけることができる時間となった。異性との間に生まれる感情とは別の愛おしさを感じた。100%以上出し切る踊りのタイミングがあったが、Sの稽古の翌々日で身体の痛みと疲れからか、息が上がり踊り切ることができなかった気がする。体力落ちている気がした。

 

25日はW。K空手出身で日本の神道系宗教団体に出会ったのちに、言霊と釼を合わせた武道を創始した人物が教える初心者向けの講座だった。古事記万葉集などの考え方が反映されていて非常に興味深く、神主のお祓いのような木剣の扱い方だった。また螺旋の動きが基本とされており、その動きが非常に心地よかった。理論や体系の説明が非常に明確でわかりやすかった。霊性をしっかり扱っていて、好感を持てた。神事として行うというような方向性が明確で、また創始者もそういった活動を実際にしており学んでみたいと思うものだった。武術武道としてというよりも、それと神事の組み合わせとして興味を持った。

 

今月10日に師範認定資格を申請した。約数ヶ月間の実習がある。申請する上で実は悩んだため、申請可能な段を取得してから、二ヶ月経ってから申請した。自分の稽古をしていくためと、実はあまり他の武道を知らず学ぶ必要性を感じたため、他の場所に稽古に出向いている。それが知れたら気まずい気もしているが、さまざまなところで学ぶことの重要性を師匠も話していたため、回っている。

 

こうやって他を回ることで自分が何を求めているのか、求めてきたのかの片鱗が見えてくる。霊性、身体性、非物理性、神事、生命、生き方など。自分にとっては格闘技である必要がないこともわかってきた。