書いてこなかったこと

日記やフィールドノートに不安や憤りをあまり書かないでいる気がしている。解釈を先送りしているからかもしれない。客観的に観察しようとしているから、あまり書かないでいるところがある。これまでモヤモヤして感じは割と横に置いていたけれど、そのモヤモヤのそろそろ明かしていった方がいい気がしてきた。

 

まず、稽古が変わってしまったこと、そして、尊敬して追いかけていた人たちがいなくなってしまったこと、本当に腹立たしい。悲しさもあったけれど、何より不義理だと思った。当事者間の問題はわからないけれど、稽古の場をなくしたことは本当に腹立たしい。取り残された気持ちだ。半年以上経った今、到底その時のような質の稽古にはならない、なっていない。今のところ、もやがかった、暗く澱んだ空気しか感じられない。

 

そして、こうやって、稽古を他者任せにしている自分には嫌気がさす。全くどうしたらいいのわからなくなっている。どう稽古をしたらいいのか、何を求めればいいのか全くといっていいほどわからなくなっている。そのことが腹立たしい。この一月になって身体も心も動かなくなってしまっている。こういうことを書きたくにない。その現実が固定されてしまう気がするからだ。でも、これが今の現状だ。

 

残念で仕方ない。今までのことは何だったんだろうかと、訳がわからなくなっている。ただ、自分が他人の褌で戦おうとしていたことに気がついた。そして、そこから脱却したいともがいているんだ。

 

特に、新たな動きが非常に嫌で嫌で仕方ない。ただただ気持ちが悪い。発想も場も本当に気持ちが悪い。僕が求めていたものが死に殺されている気がする。いや、もう既にそうなのだ。そこにはもうない。外にももうない。迷子のよう気持ちでいる。稽古に行く度に方向感覚が狂う感じがするんだ。それが本当に嫌だ。

岡本太郎の対極と爆発を年始から読み始めている。ここに打開のヒントがある気がしている。芸術とはなにか、モダニズムアバンギャルドの違いは何か、着火してくれものがそこにある。