生きている価値について悩むのやめた

「生きているだけで価値がある」という言葉は、
よく聞くし、自分でも「そうだ!、そうだ!」と賛同していました。

 

誰しもが
仕事してなくても、
学校行かなくても、
金を稼がなくても、
何かを達成できなくても、
何か特殊な技能を持っていなくても、
存在しているだけで意味がある!
生まれてきただけで価値があるんだ〜!!
価値は金なんかじゃ測れない〜〜!!
経済なんて馬鹿野郎!
と思っておりました。

 

そんなふうに思っていた私ですが、
度々このことについて考え込んで、塞ぎ込んでおりました。
「自分が生きている意味は何だろう....」とか
「俺って生きている価値あるんかなぁ...」とか
考え込んでいました。

 

「皆に生きている意味や価値がある」というのは頭でわかって納得しているものの、
それが自分に対して「生きている価値」を問おうとすると、実は鬱々としてしまう。

 

それをどうにか証明しようと、ずっともがいてきた気がします。


こんなふうに悩んだ時は、
身体動かしたり、瞑想したりして、そうしている間に気持ちが落ち着いてきて、
ピースフルになり、ある意味でのマインドフルになって
物事一つ一つに感謝の気持ちや
「ありがとう」という気持ちが湧いてきたりします。

 

そして、頑張って生きてきた自分にも「ありがとう」なんて気持ちを抱けるようになり、生きていることの価値の確信、というより確認ができて落ち着けたりします。

でも、しばらくすると、また、「俺には生きている価値があるんだろうか」...と同じパターンがやってきます。

 

先日から投資に関する本をいくつか読み始めたのですが、
そこに今まで一番納得する答え、考え方がありました。

 

「人は、ただ生きているだけで価値がある」
「人は、ただ生きているだけで誰かの役に立っている」


そう、ひふみ投信藤野英人さんは書籍の中で言います。

 

それは、『生産活動に参加していなくても、消費活動に行っているだけで、「誰かの役に立っている」』だからだそうです。

 

書籍では赤ちゃんの例が出されているのですが、
自分を例に考えてみると
寝ている間にスマホを充電している間にも誰かの役に立っていて、
家を出かけて電気消し忘れてても誰かの役に立っていて、
トイレで用を足して水を流しただけでも誰かの役に立っている
つまり、そこに経済活動が発生している。

 

正直、驚きました。

 

俺の度重なる悩み...長年の辛さ..
金で解決された。経済に、経済という仕組みに解決された。

 

今までは、
今日も電気が使えてありがとう、
今日も水が使えて、飲める水があってありがとう、
感謝しておりました。
逆に、それを思えてないと気がついた時、
自分はなんて罰当たりなんだろうとか思っていたりした。

 

でも、そんなこと考える必要なかったし、自分を責める必要なかった。

 

なぜなら、そうやって自分を責めちゃった日も、水を使ったことで、水道水に関わる人に貢献しているわけだし、家の中にいても、外に出かけても、

消費活動していれば、
何らか誰か、しかも大勢の人たちの役に立ってしまっているのですから。

 

逆に、それを避けるのすら難しいというか、ほぼ無理!

 

そういったものを供給する側から見れば、使ってくれてありがとうございます。
「毎度あり〜〜」ってことだったのです。

「生きててくれてありがとう」でした。
何なら「長生きして、もっと使ってくれよ」です。

 

精神論やスピリチュアルな話でもなく、生物とか進化とかの話でもなく、経済的に、実質的に、役に立っておりましたわ、私。
散財癖のある私、経済を回しておりましたわ。
資本主義経済社会、日本にいて、そこで生活しているだけで、十分に社会的に価値がある存在でしたわ、私。

 

こうなると、生きている価値があるかどうかなんて証明する必要なんてもうない。
疑いようがない。もう思い悩む必要もない。

 

だから、生きている価値を考えるのもうやめだ。
もうそんなことに悩まない。
だって、価値がないことを証明することができないもん。

 

よっしゃ、生きるぞ!!