ヴィジョナリースポーツとは

ヴィジョナリースポーツとは、我々をスポーツから卒業させてくれる言葉である。そんなアイデアが頭に浮かんできた。

 

稲垣は、ヴィジョナリースポーツを以下のように定義している。

・一定の身体活動をとおして起こる心象風景を楽しむスポーツ(2004)

・わたしの身体と自然との関係性のなかに生ずる心象風景を豊かにするスポーツ
・わたしの身体の声を傾けつつ周囲の自然との対話を楽しむスポーツ
・自己と他者との関係性を楽しむスポーツ
(稲垣, 2004, p.147)

・わたしたちの環境世界である自然との一体感を、身体全体で受け止めること、そして、そのことをとおして、わたしたちの内面に浮かぶ心象風景を楽しむこと (稲垣, 2004, p.150)

 

そして、下記のような身体技法であるという。

・理性による抑圧を極力避け、可能なかぎり内在性や内奥性の世界に遊ぶことのできる身体技法

・他者と自己とを区別する境界がかぎりなく薄くなり、ついには他者と一体化(合一、和合)をも可能とするような身体技法

 

わざわざ、スポーツという必要があるのだろうかという気持ちになる部分が正直ある。

 

稲垣がここでスポーツと呼ぶには理由がある。それは、稲垣のスポーツの捉え方がいわゆり近代スポーツとしての捉え方ではないからである。一つ目が動物の生と人間の理性とのはざまに生ずる存在不安の解消のための文化装置である、二つ目がスポーツが宗教とは不可分であるという認識、三つ目が祝祭でありディオニソス的なものである。スポーツのこういった背景をみているからだ。

 

つまり、稲垣のいうスポーツは近代スポーツでもなく、狭義に捉えられる競技スポーツではないからだ。そういった意味でのスポーツであれば受け入れられる。

 

しかし、僕が稽古や体技について語る時は、あえて身体技法と呼びたい。稽古や体技自体に不必要な競技性や近代的論理を持ち込みたくないという気持ちからだ。

 

スポーツを拡大解釈するよりもそこから離脱と移行をするという方向性が必要に思うからだ。上記の定義によって包含的に捉えようとすると極端になんでもいいどうでもいいという気持ちのなってしまうからだ。ここはあえて住み分けをしたい。それよりも鎌田の身心変容技法と呼んだ方がしっくりくる。

 

ここでわざわざヴィジョナリースポーツという言葉を使わなくていいと気持ちになる。だから、この言葉は使い勝手が悪くなっていた。