6月8日

今日は6月8日。6月8日は記念日の一つだ。

5年前の2018年6月8日、僕はある武道を始めて体験した。その日はその武道の支部道場での瞑想クラスに参加した。瞑想クラスの会場である二子玉川もあの日は今日と同じくらいに、綺麗に晴れていたように思う。

当時のことを振り返ってみる。

男性の師範が出迎えてくれた。パートナーさんも一緒に稽古をされているという。三名くらいの女性の参加がいた。六人で円になり礼をして瞑想クラスは始まった。

その瞑想クラスではまずは体操をするとのことだった。

師範は、「手の指先から水の滴を飛ばすように」、「無限遠方に視線を」、「さらに遠くに」「胸を開いて、お腹を開いて、無限遠方に向かって発声して」、「気持ちを地球の奥底に下ろして」と声をかけながら、体操をリードした。

全く馴染みのない言葉ばかりだった。

視線を無限遠方に...無限遠方なんて言葉初めて聞いた。体操中にそんな言葉聞いたことなかった。言われてやってみようとしたものの、体育館の壁や天井までが精一杯だった。自分が普段見ている範囲の狭さに気付かされた。それでも、頑張って見えない体育館の外に視線を向けていこうとやってみた。けれど、見えなかった、それでも見ようとしてみた。

発声も無限遠方に...どこかわからない無限遠方ってところに向かって、声を届かせようと「はっ!」「はっ!」と繰り返した。当時の鬱屈とした気持ちを吹き飛ばすように。

視線と発声を無限遠方に..なぜそうしたのか当時は何もわからなかったけれど、終わった後、ものすごい爽快感があった。

二人組になり、片方が目を瞑りながら立ち、もう片方がゆっくりと肩や背中を押す。押されてるのに対して、倒れないように倒れないように必死だった気がする。なんだか不思議な体験だった。

後半は円になって座り、瞑想をした。それまでに何度か瞑想には取り組んでいた。スマホのアプリの瞑想を使ったり、スピリチュアル系の人の瞑想会に参加したりしていたけれど、なんだか苦手だった。この瞑想クラスの時の瞑想の体験は思い出せないのだけれど、「やめぇ」の声がかかった後、目の前が明るくなったように感じた。

帰り際に、師範と話した。翌月にその武道の創始者のクラスにいくことを伝えると「先生、きっと喜びますよ、剣術もやったらと誘われるんじゃないかな」と。師範は書の稽古もされているらしく、「書はもう本部では教えてないのよ〜」と師範のパートナーがおっしゃっていた。それを聞いて、少し残念に思った。

稽古代を手渡しする際に、その師範が足を揃え、礼をしながら受け取った姿がとても印象に残っている。

そして、その一ヶ月後に、その武道の創始者に会いに行くこととなる。

あれから五年経った。明日からその武道を体験して六年目になるのか。

「視線を無限遠方に」、「意識を下に下に下ろして」、と言う号令の声に導かれて始まったのだな。

身体から始まる身心の変容が始まった記念日だ。

もっと無責任になりなさい

noteにて、2023年4月27日に公開。

 

「ジュンさん、あなたはもっと無責任になりなさい」

そう、伝説の武道家はニコニコしながら言った。

近くにいるベテランのような参加者を指をさして

「彼みたく思いっきりだらしなくなってみなさい」

そう言われて、僕は混乱した。

伝説の武道家の講座では、瞑想の時間がある。

瞑想といえば、座って呼吸をするとか、頭の中に浮かぶ考えを通り過ぎる雲のように考えるとか、そういうイメージがあった。

座ってやるものだと思っていたけれど、並べられていたイスは部屋の壁際に積まれ、部屋を広い空間になっていた。

参加者たちは、伝説の武道家の方を向き、彼の合図に合わせ、からだを動かし始めた。

からだを弾ませたり、手を上に挙げて下ろしたり、首を倒したり、肩を回したりと….

その後、向かい合って並ぶ、相手に礼をする。

片方は目を瞑りながら立ち、もう片方がその目を瞑っている相手を指先で優しく押す。

目を瞑る側だった僕はどうしたらいいのかわからなかった。ただ押されるのを感じていただけだった。

どうしたらいいのかわからず、薄目を開けて周りの様子を伺っていた。

周りの参加者はゆらゆらと押されるのに任せて体を動かしていた。人によっては床に崩れ落ちるようなほどに動いていた。

僕は反応することもできず、ただただ突っ立ていたように記憶している。

伝説の武道家は僕の横に近づいてきてこういった。

「ジュンさんね、あなたもっと無責任になりなさい」

僕は、その当時、仕事もプライベートもうまくいってなかった。だから、これ以上どうすれば無責任になれるというんだろうと心の底で思った。

僕の左斜め前にいるベテランらしき人を指さして

「彼みたいにもっとね、だらしなくなりさい。」

どんなだらしない人なのだろうか、時間に遅れたり、仕事もろくにしなかったり、女好きだったりなのだろうかと思った。

そのベテランは、もの見事に崩れ落ちるかのように動き、ゆらゆらと立ち上がることを繰り返していた。奇妙な動きだった。

その姿を見て、この瞬間、この講座の時間だけでも、だらしなくなってみようと思った。

その押したり、受けたりする動きを何度か繰り返した後、2人組から4人組、4人組から8人組とペアやグループが集められ、その中で押したり受けたりが始まった。

そうやって繰り返しているうちに、いつの間にかに全員で押したり、押されたりしながら、渦を描くようにぐるぐると周り始めた。

僕も前の人を追いかけるように、押された感覚に反応しながら、周り続けた。僕は唖然としながらも、触れられた感じがしたらそれに反応しながら、その渦に巻き込まれていった。

「やめぇ〜」という伝説の武道家の合図に合わせて、参加者たちは緩やかに立ち止まっていく。余韻を感じるかのように。

渦に巻き込まれていた時からもう何だかわからなくなり、もう何も考えていた無かったように思う。

その後、さっき部屋の端に積んだ椅子を出し、参加者全員で輪を作るように座り始めた。

渦に巻き込まれて動き続けた僕は肩で息をしながら座った。武道と聞いていたので、背筋を伸ばして、びしっと座っていた。

伝説の武道家は立ち上がったまま、ベルトを少し緩め、深く息を吐いた。

そして、座っている僕の方にまた歩いて寄ってきた。武道家は、手刀で僕の胃をグッとグッと押し込んできた。

緊張が胃に現れるという。そして、その武道家はその緊張を身体に感じるようで、僕が胃が前に出ていたようで、何度か胃を押された。

そして、またこう伝えられた。

「じゅんさん、もっと無責任になりなさい」と

そこから部屋の電気が消され、瞑想の時間となった。

愛される準備

noteにて、2023年4月24日に公開したもの。

 

2023年4月24日。
自宅から駐車場に向かっている途中に急に気がついたことがある。

それは、「愛される準備ができた」という感覚だった。

先月と今月の稽古の中で、意識や発声に方向性を持つという号令があった。それについて取り組んでいたところ、意識とエネルギーの行き来の感覚に関する気づきがあった。

これについては別の機会に紹介したいので、ここでは簡潔にいう。それは、自分から相手に向かう方向と相手から自分に向かってくる方向、その二方向は同じ根源を介したとき二つの無限ループとなり、この二つのループを同時に発生させるとその二つのループの間に新たなエネルギーが発生するというものだった。

その気づきがもたらされたとき、今まで送ることへの意識はずっとしてきたけれど、相手からエネルギーを受け取るっていうことにこれまではずっと違和感があったことに気づいた。

しかし、今回の気づきである、エネルギーが同じ根源に行き着くこと、そすて、二つのループが存在することに気づいたとき、相手という意識が薄れた。

というか、相手という存在に対して、無駄に自分が意識してしまっていたことが消え去った。

つまり、自分で送ろうが、相手から受け取ろうが、根源にたどり着いた時には同じであるということが感覚的にわかった。それは自分の根源から相手を介して戻ってきたものであって、それは脚色されていない純粋なエネルギーだからとも言えるからだ。

そう思えたとき、エネルギーを受け取るということが非常に快く感じられた。

今までは、自分からエネルギーを出してばっかだったと思っていたところもある。自分から送ってばかりだと。それはそれで実感的事実だった。

そうなのだけれど、僕自身が相手からのエネルギーを受け取ろうとしていなかった、それも無意識に起きていたことだったことに気づいた。

そう、昔から愛されることが苦手だった。

小学校の時も女子から好かれるとなんか決まりが悪くて、照れ臭くて、その気持ちを受け取ることができなかった。きっとこれまでの恋愛やパートナーシップでもおそらくそうだったのかもしれない。

いざ、愛や気持ちを向けられると、それに応えられないような気がしてか、心が閉ざしてしまっていた。

そんな自分だったことに気がついた。

でも、今回の稽古からの気づきを経て、急に愛されることを許容できる気持ちになった。

エネルギーや意識、いや、そんな固いものではなく、気持ちを受け取る準備ができたんだなって、そう思えた。

イニシエーション

noteにて、2023年4月23日に公開した記事。

 

伝説の武道家の講座
 2018年の7月、知人に紹介されてある武道家の講座に向かった。

 その知人が言うには、その武道家は、伝説の武道家だという。体育やスポーツの畑にいた僕ではあるが、武道にも武道家についてほとんど知らず、当日会場に向かうまでにわかっていたのは、その人が伝説的な人であると言うことだけだった。

市ヶ谷駅で下車して、駅近くにある会場となっているビルに向かう。

中に入ると、少し薄暗めのロビーで、人の出入りがほとんどなかったが、入り口付近のソファで二人のおじさんが談話していた。軽く会釈をして通り過ぎた。入り口から5mくらい歩いた先にあるエレベーターに乗り込み、会場の階へ向かう。

 ドアが開くと、割と眩しいくらいの明るさの部屋が目の前に現れる。

 会場入り口に入ったすぐ左に受付のようにテーブルが置かれ、そこに女性がいたので、挨拶をする。参加のメールを送ったことを告げ、初めての参加であることを伝える。

お待ちしていましたと、優しい笑顔で迎え入れてくれた。そして、せっかくなので、一番前の席にと、勧められる。

伝説の武道家のことをまともに調べずに来てしまっていたので、躊躇しながらも前の方に向かう。

 中にはもう既に知人が待っていた。彼と彼のパートナーがこっちこっちと手招いてくれている。その二人にも最前列が空いているからそこにいくよう勧められ、緊張しながらも前の方に座った。

 ホワイトボードの前にある机に一人の男性が歩いてきた。老人と言うにはかなり活力のありそうな男性で、笑顔が印象的な高齢の人だった。おじさんでもなく、老人でもない、どう表現したらいいのかわからない、でも、快活な方だった。よく見ると、先ほど、ビルの入り口で見たおじさんの一人だった。

 そう、さっきすれ違ったおじさんが伝説の武道家だったのだ。

遵という名前
 この講座に誘ってくれた知人が早速その武道家の先生に僕を紹介してくれた。

 所属先や名前を伝えて、「立派な体してるね、あなたぐらいのからだだったら全世界制覇できたかもしれないよ」と冗談っぽく、笑顔で話しかけてくれた。随分とにこやかに話しかけてくれたことが非常に印象的だった。

 時間になり、講座が始まる。冒頭に今日初めての参加者として自己紹介をうながされる。名前を改めて参加者に告げた。

 そうすると、その伝説の武道家はおもむろにホワイトボードに向かい、僕の名前を書き始めた。そして、「遵」という字の成り立ちを話し始めた。

 「遵という時は、樽を捧げている姿を文字にしたもので、自分よりも位の上のもの捧げている姿から、そういったものに従うという意味で使われている。」

 遵という名前が何かにしたがうという意味であることは知っていた。でも、その当時は、法令遵守といった言葉で使われるように、社会や学校の規則にしたがうという意味で解釈していた。随分真面目な窮屈な名前だと思っていたところもあった。とはいえ、決して名前を嫌ったことはなかった。そんな名前から正義感が湧いてくることもあった。それでも当時は何かしらの窮屈さを感じていた。

そして、伝説の武道家は続ける。

「では何にしたがうのか。大いなるものにしたがう、よりも高次のものにしたがう。たとえば、宇宙の真理にしたがうとか」と。

 その言葉を聞いて窮屈に感じていたはずの名前だったのに、急に目の前が開かれていくような心持ちになった。非常に感動した。というか、新たに解釈された自分の名前を聞いて、何か許されたような感覚を得て、何か自分を縛っていたものから解放されたような気がした。

 


きっとこれが伝説の武道家から受けた新たな道へのイニシエーションだった。

noteから移行。

稽古関連の投稿はnoteからのこちらに移行。noteは別仕様にする。

noteの自己紹介

稽古録、伝説の武道家との出会い、そして、日常の変化を描きながら、身心変容について考えていく。

記事もこちらに後々移行する予定。

 

ここ超えるところ

やり始めた時は大体、意気揚々と始まる。書き始める時もそう。色々なアイデアが生まれたり、それを整理整頓できたりする。

 

問題はそのあと。次にやろうとする時は大抵飽きている。また整理整頓したアイデアたちの位置関係がわからなくなり、進め方がわからなくなる。

 

ここで大体飽きる。あれ、なんか違うなってなる。ほぼここでやめてしまう。

でも、ここが乗り越えるところ。

 

書の稽古や剣武の稽古でもそうで、一回目や二回目はいい感じで進めるけれど、そのあとに飽きる。これには理由もあって一回目二回目はとてもうまくいく。そのあと、書いてもそれ以上うまくいかない。しかし、この先が大事であることが稽古から学んだことである。

 

この後はとにかく繰り返しておくことが大事。色々考え出すとうまくいかなくて嫌になる。質が変わらないし、むしろ劣化していく、だから本当に嫌になる。でも、ここでは何にも考えずにただただやっていくことが肝要。

 

そのうち、パッと開けてくる瞬間が来る。この忍耐が大事。だから、今ここ越えるところ。

あるかないかで迷ったら

才能や能力があるかないかで迷うことがある。しょっちゅうだ。

 

文章を書くとか、研究するとか、教育に関わるとか。

 

絵を描くとか、楽器を演奏するとか。

 

この世界で生きるとか、どうとか。

 

そういった何かあるかないかを知るためにときどき占いで尋ねたくなる。聞いたらその何かを伝えてくれることもある。聞いた瞬間、安心して、しばらく時間が経つとまた不安になる。

 

ふと周りを見渡す。これまで買った本が山ほど積まれている。ところどころ、キレイに背表紙をこちらに向けて座っている。今月ももう三冊も本が届いている。

 

読みきれないほどの本がそこにあることに気がつく。SNSで誰かが紹介していた本や、本の中で引用されていた原本、著名な誰かの新作。そこにはある。けれど、読みきれてない。

 

ふと気がつく。

 

そこにはあるのだ。だけど、読みきれていない。そして、本の内容を使いきれていないことに気がついた。

 

あるけど、ないことにしている。あるけど、使えていない状態にある。

 

ああ、なんだ。あるんだ。あるのに使いこなせていなかっただけだったんだ。

 

自分に対する問いが「あるのかな?、それともないのかな?」だったけど、その問い方が間違っていたことがわかった。

 

あるか、ないかじゃなかった。もっと言うと、その問いの答えはいつも、「ある」なのだ。

 

問題は使いこなせているかどうか。どう使いこなすか、どうやって使いこなすかなんだ。

 

いつまでもあるかないかで悩んだり迷ったりしてても仕方がない。だって、あるんだから。どうせあるんだから。

 

だから、これからは、そのあるものをどう使いこなすか、どうやって使いこなすかを考えることにしよう。

 

どうあるものを使いこなすか。

 

どう書くか、どうやって描くか。

 

この世界を溢れんばかりの「ある」とどう歩むか。